荒川の支流金目川右岸に位置する古田地区。ここは、JR小国駅の北東8km程のところにあり、「小国八景」にも詠まれた自然豊かな集落である。
古くからこの地に伝わる「古田歌舞伎」は、平成4年3月31日民俗芸能第3号として町の文化財に指定された。その後、地元には、古田歌舞伎・古川一座の拠点となる「古田歌舞伎伝承館」も設置され、そこでは、技能の伝承はもとより、関係資料や諸道具類の保存も行われている。古田歌舞伎の上演は、近年では毎年10月末頃に行われ、出し物は寿式三番叟、白波五人男、一の谷嫩軍記、絵本太閤記、傾城阿波の鳴戸など多数数える。
当歌舞伎の発祥に関する明確な資料は無く、いつの頃か不明であるが、口碑や浄瑠璃本などから推定して幕末頃(嘉永・安政)とみられている。伝播、中断、再興と、紆余曲折の歴史を重ねて来た古田歌舞伎。この歴史を調べ、自らも台本を書き再興に取り組んだ地元の郷土研究家故安部藤雄氏は、昭和42年3月、『古田郷土史資料巻2・古田芸能抄』を著した。この記録によれば、黎明期における本歌舞伎の状況は要約すると以下の通りである。

「古田歌舞伎は俗に古田芝居ともよばれ、全盛期には、小国一円ばかりでなく、隣の中津川方面や越後関川村まで公演して回り、多くの人達に親しまれて来た郷土芸能である。歌舞伎は、幕末頃旅芸人によって全国各地に広められ、ここ古田にも伝わった。明治のはじめ頃になると、浄瑠璃本などを頼りに、見よう見まねで演じていた村の若者達も本格的に歌舞伎を習うようになった。明治20年頃、旅芝居の座長が越後街道・桜峠で急死し一座が解散したため、座員で浄瑠璃・三味線・太鼓等の裏方にも精通し、芝居の上では実形を得意とした江戸興行の経験もある尾上竹三郎なる役者が古田に流れ着いて土着し、村の若人たちに芸を教えた。これにより、古田芝居の形が整えられていった。」

近隣の村々にまで出向き公演をした古田芝居。昭和12年9月、日本電興(現クアーズテック及び日本重化学工業の前身)食堂落成のこけら落としに招かれ、昼夜二回の公演を行った後中断した。その後、昭和20年ごろ復活したものの、昭和33年地元古田分校での公演を最後に再度休止した(『おきにわ便り』昭61年3月)。しかし、復興を望む地元住民の強い熱意と協力により、昭和61年11月、古田歌舞伎保存会が結成され待望の復興公演が行われた。現在(令和元年)は、地域外の若者も一座の構成員となり活動が続けられている。
 ※小国八景(古田の落雁) : 琴の音の いえこと聞けば幾秋の 古田におつる 天津かりがね (詠者不詳)

施設基本情報

住所 日本、山形県小国町大字古田386−1 古田歌舞伎伝承館(map
TEL 小国町教育委員会 0238-62-2141 公式サイト
営業時間 定休日
料金等 インターネット環境
支払方法 交通案内
駐車場 有(無料) 最寄のバス停

古田歌舞伎関連ブログ記事

関連記事はありません。